夏の全国高校野球はまさに佳境。各都道府県代表の球児が熱戦を繰り広げています。きょう紹介するのは、いまから93年前、夏の甲子園を舞台にした実話に基づく台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」です(2024.8.12)
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日本統治下・台湾の出場校
夏の甲子園が始まったのは1915年(大正4年)。戦前のことですから、第7回(大正10年)から朝鮮と満州、第9回(大正12年)から台湾の代表が参加するようになったそうです。
2014年に製作された映画「KANO」は、1931年(昭和6年)の第17回大会に出場した台湾の嘉技農林学校野球部を扱っています。

1931年、日本統治下時代の台湾から甲子園に出場した実在のチームを描く感動作。
台湾で歴史的な大ヒット作を樹立し、日本でも連日劇場満席状態の大ヒットを記録した話題作

嘉義農林の卒業生が古い資料や関係者への取材をもとに、甲子園に出場した野球部の話を一冊の本にまとめて母校に寄贈していたことを台湾の映画監督ウェイ・ダーションが知り、野球経験のある台湾の俳優マン・ジーシアンを監督に起用して映画化を決定。製作当時に存命だった当時の野球部メンバー、蘇正生(漢人、2番センター)から球児たちの人間関係を聞き取って脚本を練ったそうです(ウィキペディアによる)
映画の中で出てくる表現なのでそのまま使いますと、球児たちは、
- 蕃人(ばんじん)=原住民
- 漢人
- 日本人
の混成チームでした。永瀬正敏氏演じる近藤兵太郎監督いわく、
蕃人は足が速い
漢人は打撃が強い
日本人は守備に長けている
こんな理想的なチームはどこにもない
という理由からでした(ただ、これは地元名士に揶揄された場面での反論なので、あえて「理想のチーム」と表現した側面もないとは言えません)
ブルーレイのブックレットはもっと丁寧に書いています。甲子園に出場したラインナップ順に書くと、
- 1番レフト 平野保郎(原住民アミ族、本名ボロ)
- 2番センター 蘇正生(漢人)
- 3番ショート 上松耕一(原住民プユミ族、本名アジワツ)
- 4番ピッチャー 呉明捷(漢人)
- 5番キャッチャー 東和一(原住民アミ族、本名ラワイ)
- 6番サード 真山卯一(原住民アミ族、本名マヤウ)
- 7番ファースト 小里初雄(日本人)
- 8番セカンド 川原信男(日本人)
- 9番ライト 福島又男(日本人)
全員が実在の人物で、ブックレットには戦後の足跡や生没年も書いてありますが、セカンドの川原信男とライトの福島又男の2人は生没年不詳となっています。太平洋戦争で戦死と書かれてあり、戦後の聞き取りがかなわなかったためでしょう。
日本統治下の物語ですから、球児たちは全編日本語で話し、原住民同士や漢人同士の会話のみアミ語や漢語で日本語の字幕がつく形です。出演者は野球経験がある人を選んだそうですが、日本語の習得にも相当な時間を割いて製作したことがうかがえます。
映画の前半は、他の野球チームと戦っても一度も勝ったことがない弱小チームが、近藤監督から「甲子園」を掛け声に毎日市内をランニングするよう命じられ、負ける悔しさをおぼえ、馬鹿にされても練習で跳ね返すことを身につけ、徐々に強くなっていく過程が丁寧に描かれます。
映画の後半は、甲子園に舞台を移します。
1回戦で勝利した直後、新聞記者のひとりが失礼な質問をします。
違う民族と意志の疎通ができるんですか?
野蛮な高砂族(原住民族の旧呼称)は日本語ができる?
ニ・ホ・ン・ゴわかる?
その瞬間、前列にいた平野(原住民アミ族)が何とも言えない表情をするのです。
「またか」「何を言っても無駄だ」…
きっと何度も何度も繰り返し言われてきた貶める言葉に、そんな諦めに似た表情を浮かべて俯くと、横にいた小里(日本人)が言い返します。
質問の意味がようわかりません
僕たちはいい友達です
近藤監督がすぐに「あなたは何を見てるんですか。野球の大好きな球児です。民族の違いは関係ない」と一蹴して終えますが、そのことを彼らは試合を通じて”証明”してみせます。
準決勝戦で指を痛めたピッチャーの呉明捷が決勝戦で制球に苦しみ、近藤監督が控えのピッチャーに肩慣らしを命じると、「(3年生の)アキラ先輩はこれが最後です。最後まで投げさせてやってください」と監督に迫るのは平野です。
制球難から2連続押し出しになると、「アキラ、打たせてやれ。俺たちが必ず守る」と最初に声をかけるのは小里です。
漢人の呉明捷と蘇正生以外は全員日本名で、日本語でのやりとりですから、映画を観ているだけだと普通の”スポ根”ものに見えますが、ブックレットを読んでひとりひとりの出自を知ると、奥深い世界を描いていることがわかります。
ユーチューブで映画の予告編を視聴できます。
気にいったら是非視聴してみてください。とてもいい映画です。
(しみずのぼる)
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