タキ氏のビジネスが忙しいなら嬉しい…山尾悠子「初夏ものがたり」 

タキ氏のビジネスが忙しいなら嬉しい…山尾悠子「初夏ものがたり」 

きょう紹介するのはちくま文庫から発売された山尾悠子氏の「初夏ものがたり」です。と言っても、1980年出版本の半世紀近くぶりのリバイバル復刊。「今は亡き人が大切な人の許を訪れる。その仲立ちをするのは謎の日本人ビジネスマン、タキ氏」(文庫背表紙より)という、ふしぎな味わいの連作短編集です(2024.7.31) 

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「少女怪談」所収の一篇

「初夏ものがたり」を手に取るきっかけは、ホラー・アンソロジーの名手、東雅夫氏の書評を読んだことでした。 

今から20年以上の前になるが、『少女怪談』と題するアンソロジーを、学研M文庫から上梓したことがある。
(略)
収録作の中でも、とりわけ印象に残っているのが、山尾悠子の少女小説連作集『初夏ものがたり』の1篇「通夜の客」だった。

https://colorful.futabanet.jp/articles/-/3202

ん? 「通夜の客」ってどんな話だっけ? 覚えてないぞ… 

少女怪談」所収の短編では、わたしの場合、以前記事にした大原まり子氏の「憑依教室」がいちばん印象的でした。 

それで、編者自身が「とりわけ印象に残っている」とまで書く小説を読んでみよう…と思ったのがきっかけでした(なお、わたしの手元にある「少女怪談」は学研ホラーノベルズ版で「通夜の客」は未収録。文庫化で追加された一篇でした) 

幻の初期ファンタジー小説集『オットーと魔術師』収録の表題作品が、酒井駒子の挿絵とともによみがえる。今は亡き人が大切な人の許を訪れる、その仲立ちをするのは謎の日本人ビジネスマン、タキ氏。まばゆさと湿り気、黒塗りのリムジン、どこかでひりひりと鳴り続ける電話の音……みずみずしい初夏の空気を存分に織り込み、夏の入口にふさわしい、鮮やかな印象を残す4話。 

よほどのビッグ・ビジネス…

巻頭を飾る「オリーブ・トーマス」を紹介しましょう。海外のとあるホテルのボーイたちが注視する日本人ビジネスマン、タキ氏はこんなふうに物語世界に登場します。 

この一週間ほど、毎日この時刻になると姿を現すこの泊まり客の名を、彼らはもう全員が知っていた。(略)ここ数日間この客の身分を知ることが彼らの共通の関心事となっていた。
そもそもは、いつも不機嫌で目つきのきつい支配人が、この客を特別に丁重に扱うようにと、珍しく緊張した様子で従業員全員に言いわたしたことがきっかけだった。

逗留中一度も外出せず、夕刻にグリルで食事をとるだけ。にもかかわらず、部屋係のメイドは、ベッドを使った形跡がないと言う。 

日本人で、しかもあの服装なら、ビジネス関係に違いない。それもあの支配人が重要人物扱いするのだから、よほどのビッグ・ビジネスなのだろう。 

興味をそそる出だしですが、「少女怪談」に収められるぐらいだから、怪談なんだよね?と思いながら読み進めると、一本の電話がーー。

電話を取り次いだボーイが聞き耳を立てていると、電話の相手が口にしたのは「オリーブ・トーマス」という名前……。 サイレント時代のハリウッド女優の名前じゃないか…とボーイは思ったが、 

いくら考えても、彼にわかるはずはなかった。そしてこの翌日、タキ氏が初めて外出し、白昼の街路で誘拐をやってのけるだろうとは、ますます思いつくはずもなかった。 

というかたちで、ようやく物語世界が動き出します。

でも、ここまで文庫で7ページ。意外と長めの前口上と思いましたが、ものすごく惹きつけられませんか? 「なにが始まるんだろう?」「これはどういうストーリー?」……と想像力を思い切り搔き立てられます。 

亡き人が大切な人の許を訪れる

タキ氏が”誘拐”するのはひとりの少女。その少女ーーオリーブ・トーマスが母親と街中を歩いているところで、その日一日だけ母親の記憶を失わせ、少女を黒いリムジンに乗せて夜8時に別荘に連れて行く。そこで少女と会うのは、少女が生まれる前に20歳の若さで死んだ父親。7歳の誕生日を前に、成長した娘に一目会いたくて……。 

タキ氏のようなダーク・スーツ姿の日本人ビジネスマンが取り持つのは、死んだ人たち。生前に想いを残した人に一度だけ会わせることができるが、時間は夜の12時まで。

オリーブ・トーマスは夜食にほとんど手をつけずに寝入ってしまい、迫る刻限に父親の気持ちは揺れる。 

手を伸ばしかけて、トーマス氏はためらった。それで、自分はこの子に何を期待しているというのだろう。パパと呼ぶのを聞きたいとでもいうのだろうか。
まさか、と反射的にトーマス氏は思った。それはやりすぎだ。自然に顔が赤らんでしまった。
「二十歳と、七歳なんだものな」
口に出して言ってみた時、子供が寝返りをうって、何かを手探りするような動作をした。トーマス氏は、軽い衝撃を心に感じた。自分の手の中に、子供の暖かいこぶしがねじこまれてきたのだ。隣室で、鳩時計の小窓が開き、機械仕掛けの鳩が鳴きはじめていた。
「二十歳と、七歳か」
子供の手を握ったまま、トーマス氏は最後にそう言い残したのだった。そして、目を閉じた。鳩が十二回鳴いて引っ込み、小窓が閉じた時、小さなオリーブ・トーマスは眠ったまま七歳になった。若い父親の姿はいつのまにか掻き消えて、もうどこにもなかった。

誘拐とか、死者と生者の仲立ちとか、それだけ聞くと何やらすごい展開になりそう…と想像したのに、ドラマチックなことは何ひとつ起こりません。亡き父と娘のたった一度会う場面も上述の引用のとおりで、静謐な余韻が残るだけです。でも、とても心の隅々に沁み入るように、ほの温かな感動が広がってくると思いませんか? 

「会ったのよ、一度」

オリーブ・トーマスの物語はあとほんのすこし……。1年後、若くして未亡人になった母親が再婚する当日の出来事が描かれます。 

「あなたは結局、前のパパの顔は見たことは一度もないのだから」
母親は、ふと子供に向かって言った。あわただしい時期と時間とのはざまに訪れた空白が、ふとこんなことを言わせたのだ。
「会ったのよ、一度」
陽あたりのいい控え室の、三面鏡の奥に映っていた子供がそう言うのを母親は聞いた。振り返った時、廊下の向こうから新しい父親に呼ばれて、子供は扉を出ていくところだった。ーーそれはあれからちょうど一年後の、さわやかな陽ざしに恵まれた初夏の日のことで、子供は今日から、オリーブ・トーマスではない別の名になるのだった。

ビジネスに熱心な人なのよ

東雅夫氏が文庫版「少女怪談」に収めた「通夜の客」も、「オリーブ・トーマス」と同じ趣の(ホラー・アンソロジーには似つかわしくない)静かな物語です。 

登場人物は長く海外に住んでいた老婦人。親族の葬式に集まるため5月の日本を訪れたところで、同じく葬式に出席する大学生の勲と会話をしていると、門前に黒いリムジンが停まった。 

「あっ」
と、小さな、それでいて緊迫した叫び声が起きた。振りかえった時、勲は夫人が口を押さえて門のあたりを凝視しているのを見た。
(略)
夫人が口の中で言ったのは、聞きとれないほど早口の英語だった。
たったひとつ聞きとれた単語は、勲の耳に、「タキ氏(ミスタ・タキ)」と聞こえた。

老婦人はなぜ、死者と生者の仲立ちを務めるタキ氏を知っているのか、タキ氏はなぜ葬式に訪れたのか(=生者の誰に死者を会わせる予定なのか)、物語が進むにつれて明らかになっていきます。 

物語の終盤、タキ氏が役目を終えて姿を消した後、老婦人は勲とこんな会話をします。 

「あの人は、ビジネスにとても熱心な人なのよ。ーーそうして全世界はね、親しい人たちばかりで輪になっているようなものなんだわ」
「何ですか?」
「とても、幸福だということよ」

最後の一篇「夏への一日」では、タキ氏のような日本人ビジネスマンが忙しくしている場面で物語は幕を閉じます。 

今は亡き人が大切な人の許へ、きょうも明日もあさっても、おおぜい訪れているのだと想像すると、それだけで心が温かくなってきませんか。 

復刊を機に新たに加わった酒井駒子さんの挿絵も、小説の雰囲気にぴったりあっています。 

読後にふしぎな多幸感に包まれる連作短編集です。ぜひ手にとってみてください。 

(しみずのぼる) 

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