傷心癒やすカントリーライフ:村山由佳「すべての雲は銀の…」 

傷心癒やすカントリーライフ:村山由佳「すべての雲は銀の…」 

きょう紹介するのは村山由佳さんの青春小説「すべての雲は銀の…」です。恋人に裏切られて傷心の大学生が逃避した先の信州の地で、カントリーライフと人々との交流で心の傷が癒えていく様を描いています。大好きな小説です(2024.7.18) 

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壊れかけた心に降り積もる物語

わたしも何がきっかけで村山由佳さんの「すべての雲は銀の…」を手に取ったのか思い出せません。単行本が出てすぐの頃(2001年)に本屋で平積みされていた本書をパラパラ立ち読みして購入した…と記憶します。 

何か特別な事件が起こるでもなく、恋人の裏切りに立ち直れない大学生も、ぜんぜん主人公らしくありません。でも、読後なぜか心が軽くなりました。 

その後も文庫化されて買い直して読むなど、折に触れて再読する1冊となりました(自分の心の中に鬱屈がたまると手に取りたくなるのかも…) 

誰も愛せない。壊れた心に降り積もる物語。心変わりした恋人由美子が選んだのは、こともあろうに兄貴だった。大学生活を捨てた祐介は信州菅平の宿「かむなび」で、明るさの奥に傷みを抱えた人々と出会う(上巻あらすじ) 

宿を整え、厨房を手伝い、動物の世話をする。訪れるのは不登校の少女や寂しい老人、夢を追う花屋の娘たち……。人々との出会い、自然と格闘する日々が、少しずつ祐介を変えていく。一方、瞳子は夫の消息を追ってエジプトへ。もう一度誰かを愛せる日は来るのだろうか――。壊れかけた心にやさしく降りつもる物語(下巻あらすじ) 

恋人が好きになった相手は兄だった

主人公の大和祐介は大学3年生。サークル仲間の笠松由美子と1年の冬から付き合い始めたが、短大を卒業して一足先に社会人になった由美子は別の男を好きになった。 

「友だちと旅行にいってくる」と嘘をついてそいつと出かけた。
(略)
べつにめずらしい話じゃない。どこにでもある、恋人の心変わりだ。ただひとつーーその車を運転していたのが僕の兄貴だったことを別にすれば。

どん底の状態にあった祐介を信州菅平に誘ったのは、高校時代からの親友で由美子とも旧知のタカハシだった。タカハシが夏のあいだアルバイトをしていた民宿に後釜として誘ったのだった。 

〈どうせならしばらくすっぱり休んじまって、落ち着くまでこっちでバイトしてりゃいいじゃんか。ちょうど来週末に俺が抜けるから、かわりのやつ募集してんだぜ〉 

とにかく東京を離れたい。兄貴と由美子の気配を感じないで済むところならどこでもいい。 

僕はべつに〈したいこと〉があってここに来たわけじゃない。むしろ、いま一番したくないことから逃げ出した結果、ここへ流れついてしまっただけの話だ。 

こうして祐介は、信州菅平の宿「かむなび」に住み込みで働くことになった。 

いのちあるものと関わる

「かむなび」は民宿でもあり、食事処でもあり、野菜農園でもあった。それも園主のこだわりで完全有機栽培。祐介の仕事は畑仕事も含まれていた。 

園主から取れたてのナスを渡された場面を紹介しましょう。 

「拭かんでエエ、無農薬や。ええから早よ食え、どんどん味落ちてまうで」 

そんな大げさなと思ったが、逆らわずにおく。遠路はるばる長野まで来て、いったい何が悲しくて生のナスを食わされなきゃならないんだろう。 

おそるおそるかじってみる。じっと見られているので仕方なく、口の中のかけらを噛み砕く。若いリンゴみたいな歯ざわりだな、と感じたすぐ後から、みずみずしい芳香が、次いでほのかな甘みが舌の根にひろがった。もう一口かじる。今度はゆっくりと味わう。覚えのあるわずかな渋みを抜きにすれば、とてもナスとは思えなかった。 

農園には柿の木もあった。 

「見てみ。あそこに鈴なりに生っとる、あの柿の実な。あの柿を出荷したかて、おそらくろくに値段もつかへん。ほとんど無価値やろ。けど、あの橙色のきれいな実いを、この里の風景をかたちつくる一つの大事な要素やと考えたら、どうや。無限の価値を持つとは思わへんか」 

園主のダミ声を聞きながら、僕の脈拍はどういうわけか疾くなっていた。 

ようやく色づいたばかりの柿はどれも、枝の先に重たげにぶら下がり、秋の日を受けてぴかりと光っている。暮れなずむ空を背景にして、それは僕の目にひどくまぶしく映った。 

もちろん、野菜や果物だけではありません。なんといっても完全無農薬です。祐介の大事な仕事のひとつが堆肥作りでした。 

〈堆肥作りで一番大事なんはワラや〉 

と園主は言う。ワラとなる稲はもちろん無農薬で育ったもので、目には見えないが菌がびっしりついている。発酵を進ませる、いわゆる納豆菌というやつだ。新しく堆肥を作るときはこのワラをざくざく切って、水をたっぷり吸収させておく。地面に丸太や竹をならべて通気を良くした上に濡れたワラを積み、枯れ草をのせ、その上から米ぬかと鶏ふんを混ぜ合わせたものをばらまく。水をかけ、また上からワラを積み、枯れ草をのせ、踏みつけて米ぬかと鶏ふんとまいて水をかけ……それを繰り返して最後に土とワラをかぶせたら、じっくり発酵するのを待つ。途中、何度か切り返しをして、完成までだいたい四十日から四十五日。僕が『かむなび』へ来た当初、園主からしこたま怒鳴られながら作った堆肥はもう、来春の植えつけのために休ませてある畑にすき込まれていた。 

隅っこに立てかけてあったでかいフォークを手に取って、僕は古いほうから二番目の堆肥をかき混ぜた。中から無数のミミズがもりもりうじゃうじゃ絡まりあって出てくる。 

ナス、柿、堆肥の描写だけ見ても、本書の自然賛歌がディテールにこだわっていることがわかるでしょう。若い女性ふたりに誘われて手伝うことになった花屋の日々を含めて、自然と接する日常が祐介の心を徐々に癒していくことが丁寧に書かれています。 

「なんやこのごろ、生き生きしとるやないか」と、園主にまで言われた。「花屋が性に合うとるんちゃうか」

そういうわけじゃないですよ、単に新しいことが面白いだけです、と弁解した僕に、園主は首を振って言った。

「それは違うな。おもろいのは、いのちあるもんと関わる仕事やからや。どうやお前、次の夏は畑もやってみぃひんか。おもろいでぇ。トマトは、双葉の時からちゃぁんとトマトの匂いすんねんでぇ」

次の夏のことはともかくとして、自分が今また毎日を少しずつ楽しみ始めていることを、僕はなんだか後ろめたく思った。
(略)
もちろん、今だってすっかり平気になったわけじゃないし、由美子の声や顔を思い浮かべただけで心臓がえぐられるように痛むのは前とちっとも変わっていない。

ただ、一分ごとに彼女のことを考え、食べ物の味もせず、世界がモノトーンに見え、笑い声をあげる余裕すらないというような時期は、どうやら過ぎていってくれたようだった。

瞳子の目に浮かぶ感情

でも、心の傷を癒すのはやはり人です。あらすじにあるとおり「不登校の少女や寂しい老人、夢を追う花屋の娘たち」との交流が、祐介の心を変えていきます。 

ひとつひとつ書くわけにいきませんので、園主の姪で宿に住み込む瞳子との出会いを紹介します。 

瞳子は夫がエジプトで濁流にのまれて行方不明となり、ひとり息子の健太を育てているシングルマザー。タカハシが後任に推薦した祐介を駅まで迎えに来るシーンです。 

「……ちゃん」
シャツのそでを引っぱられて我に返った。自分がどこにいるのか思い出すのに、ちょっと時間がかかった。見れば、椅子の横に立ってしげしげと僕と見つめているのは三歳くらいの男の子だった。小さな左手で僕のシャツをつかみ、溶けかけのソフトクリームをしっかり握っている。
「とーちゃん」と、男の子はくり返した。
(略)
若い母親が駆け寄ってきたのはその時だった。「何やってんの、ケンタ……!」

白いTシャツに色あせたジーンズ、無造作にはねたショートヘア。年の頃は二十七、八といったところだろうか。
(略)
「すみません。この子ったら、ちょっと目を離した隙に……」
言いながら初めて僕を正面から見おろしたとたん、目を見ひらいた。

続く文章がとても好きです。 

一瞬の間に、彼女の表情は複雑きわまりない変化を一巡した。驚き。喜び。懐かしさ。あきらめ。哀しみ。非難。自制……。そんなふうなものがめまぐるしくその目の中を出入りするのがわかった。 

祐介は瞳子の行方不明の夫にとても似ていたのだった。

「かみなび」での生活は、祐介を「とーちゃん」と呼ぶのをやめない健太、そして磊落な性格ながら祐介には不思議と心の中を覗かせる瞳子に囲まれながら、にぎやかな日々が続いていきます。 

苦しい時でも必ず希望はある

瞳子の目に浮かぶ感情のくだりを読んだ時、これは祐介と瞳子の恋愛ものがたりになっていくのかな…と思いましたが、そう単純なストーリーではありません。

でも、ものがたりの終盤、瞳子を前に祐介は眠って見た夢の話をします。本書のタイトルに関係する部分です。 

「何の夢見てたの?」
「……く・も」
「くも?」
「そう。まわりが……」
口の中が乾ききっていてうまくしゃべられない。ひじをついて体を起こし、瞳子さんが差し出してくれたグラスの水を飲んだらようやく舌が動くようになった。
「まわりが、銀色に光って浮かんでくる雲の夢」
(略)
窓からの逆光で、瞳子さんの輪郭が銀色に輝いて見える。僕は、夢の中で見たあの雲を思った。

本書のタイトルはイギリスのことわざーー「すべての雲は銀の裏地を持っている」(Every cloud has a silver lining.)から取っています。 

地上から見れば曇り空にしか見えなくても、雲の裏側は太陽に照られて銀色に輝いている、まるで銀色の裏地みたいに……。 

どんなに苦しい時でも必ず希望はあるーー。 本書の内容をとてもよく表している題名だと思います。 

起伏にとんだ展開はありませんが、読後こころに沁み入るように温かな感情が湧いてくる小説です。ぜひ手にとってみてください。 

(しみずのぼる) 

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