きょうは柴田よしきさんの警察ミステリー小説「月神の浅き夢」を紹介します。悪魔のように頭の切れるインテリヤクザ〈山内練〉シリーズの2作目であり、山内練の誕生の秘密が明かされる重要な作品です(2024.5.11)
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以下の文章は「悪魔みたいに頭が切れる〈山内練〉デビュー!:柴田よしき「聖母の深き淵」」 を読んでいる前提です。未読の方は必ず先に読んでください。
指定広域暴力団春日組の若頭であり企業舎弟会社「イースト興業」社長の山内練と、元刑事で私立探偵の麻生龍太郎がはじめて登場する「聖母の深き淵」の終わりの方で、同書の主人公である女性刑事・村上緑子に対し、麻生が送った手紙の引用から始めましょう。
村上緑子殿
君には本当に申し訳ないと思っています。嫌な思いをさせてしまった。言い訳はしない。自分は愚かなことをしたと思っています。きちんと罪を償い終えたら、その上で、ちゃんと謝罪させて下さい。
ただ、ひとつだけ。
自分は、ああする以外になかった。君にもいつか話そうと思っているけれど、自分はあの男に対して、一生かかっても支払えない負債を背負っている。君の想像を超えた、恐ろしく重い罪を、自分は彼に対して犯している。その罪に比べれば今度のことなど贖罪にも値しない。自分の残りの人生はおそらく、その償いの為に費やされる。これからももし今度のようなことがあっても、君は関わらないで欲しい。自分とあの男との泥沼に、君はその足を踏み入れてはいけない。それだけを、覚えておいてください。
麻生が言う「君の想像を超えた、恐ろしく重い罪」について、麻生の手紙を読んだ緑子が、
麻生が冤罪事件に関わって警察を辞めたという噂、あれに関係があるのだろうか?
と想像するくだりが「聖母の深き淵」に出てきます。
麻生が刑事時代に山内練を逮捕し、それが冤罪だった。そのために山内は刑務所で男娼に堕ち、出所後、暴力団の世界で「悪魔のように頭が切れる男」として生まれ変わった……。
そんな山内練誕生の謎が描かれているのが「月神の浅き夢」であり、村上緑子が山内誕生の謎に関わることで、麻生が成し得なかった山内練の再生の扉をひらくところで物語が閉じる……というストーリーなのです。
まるで処刑…刑事ばかり惨殺
もっとも「月神の浅き夢」は、刑事ばかり狙って惨殺される連続殺人事件がストーリーの主軸です。あらすじを紹介します。
若い男性刑事だけを狙った連続猟奇殺人事件が発生した。次のターゲットは誰なのか? 刑事・緑子は一児の母として、やっと見つけた幸せの中にいた。彼女は最後の仕事のつもりでこの事件を引き受ける。だが、緑子を待ち受けていたのは、人間の業そのものを全身で受け止めねばならぬ苛酷な捜査だった……。刑事として、母として、そして女として、人間の心の核に迫る新警察小説〈RIKO〉シリーズ、最高傑作!
物語はグロテスクな死体の描写から始まります。
手足のない、男の肉体。
首にかけられた太いロープは、風もないのに、なぜか微かに揺れていた。
うなだれた首。奇妙なほど清潔そうな裸の胸。
その旨から腹部へと続く平らかな筋肉の流れを、いきなり断ち切る、赤い傷口。
殺された警視庁の刑事は5人。任官年度も警察学校の卒業年度も異なり、同じ所轄に勤務したこともない。ただ年齢が若く美男子だったことだけが共通項だった。凶器は電動ノコギリと推定された。
警視庁に設置された合同捜査本部に呼ばれた村上緑子は、新宿署時代の同僚、坂上を連れ立って被害者の身辺捜査にあたった。
被害者は4人目に殺された蓼科昌弘。それまでに殺された3人は、水曜夜から木曜未明に殺害されるという共通項があったが、蓼科は違った。5人目に殺された玉本栄も曜日が異なり、殺害のタイミングから絞ることは無意味となったが、その”変化”のはじまりが蓼科の殺害だった。
緑子と坂上は、パチンコ店や通いの食堂への聞き込みから、蓼科がアイドルの山崎留菜を調べていたこと、それ以前に殺された3人が山崎留菜のファンクラブに入会していたことを探り当てる……。
大学院生の時に逮捕
本筋の紹介はこのあたりにとどめて、肝心の山内練誕生の謎について書きましょう。
麻生に恋愛感情を抱く女性刑事・宮島静香が麻生と山内の関係を調べ、緑子に教えた。
山内が最初に逮捕されたのは十二年前で、麻生が世田谷署に研修に出ていた時、山内はまだ大学院の学生だった。
「山内はとても優秀な学生だったそうです……容疑は、女性を暴行しようとして怪我をさせたというものです。その事件で、あの男の人生は大きく変わったんですね。実刑判決を受けて服役し、出所してからは、大学にも故郷にも戻ることはなく……あの男はヤクザになってしまった」
「見方によっては、あの男の人生を変えたのは麻生さんだとも言えるかも知れません……麻生さんがあの男を逮捕しなければ、あの男はあんな人生をおくることはなかったかも知れない」
緑子は山崎留菜のファンクラブを運営する会社への聞き込みで、同社の女性スタッフがパソコンで見ていたウェブサイト「朽木村の四季」に、連続殺人事件が送って来た犯行声明文に載っていた蝶と花畑が映っていたことに気づき、「朽木村の四季」のサイト運営者である香田雛子が経営する雑貨店を訪れた。
雛子を見たとたん、緑子の背中に戦慄が走った。
片エクボの出来たその頬の愛らしさに、緑子は見覚えがあった。そしてその見覚えが、連鎖反応のように緑子の認識を走り抜けた。
その優しく大きなアーモンドの形の目にも、華奢で小振りの鼻にも、閉じているとふっくらして見える唇にも……そして、その長い睫毛と……日本人にしては色の薄い、その瞳にも!
雛子は口を開いた。
「そんなに似ておりますか、あたくし……弟に」
香田雛子は山内練の兄だった。雛子は山内のことを語った。
「あの子は……こんなことを申し上げても笑われるだけなのでしょうけれど……本当に優しい子だったんです。おとなしくて、内気で、人に虐められることはあっても、人を苦しめたり傷つけたり出来るような子ではありませんでした。あたくしのことをいつも心配してくれていて……どうしてこんなことになってしまったのか……いいえ」
「……原因は、はっきりしているわ……あたくし達が……あたくしや母や、父があの子を信じてやらなかったから……信じてやっていれば……だけど、だけど……いちばん悪いのは……」
兄の自殺…自殺を図る
緑子は朽木村を訪ね、そこで麻生と再会した。麻生は緑子に山内のことを明かした。
「練には兄がいた」
「十二年前、練の一審判決が有罪、実刑と出た晩に、都内のホテルで首を吊った」
「山内宗、地元では神童と言われていたほどの秀才で、京大の経済を出て政治家を志望していた。一九八五年、山内宗には既に後援会の準備も整っていたそうだ。当時は民自党の大物政治家の第二秘書だったが、秋にはその政治家の娘との結婚が決まっていた。その直前に、練の事件が起こった。……兄の自殺を拘置所で聞いた練は、独房の壁に頭を打ちつけて死のうとしたらしい。国選弁護人だった藤浦という弁護士が控訴の意志を確認しに拘置所に行った時、練は、拘禁服を着せられて汚物の中に転がっていたそうだ」
「練は結局、控訴しなかった。兄の宗を溺愛していた練の父親が激怒して、練と縁を切ると言ったらしい。藤浦はそれでも、控訴するよう勧めた。だが実家からの支援を断たれた状態で判決を覆す新事実もない有り様では、控訴審でも勝ち目はない。しかも、練の母親は控訴しないよう泣いて懇願した。母親に泣かれて練は諦めた。控訴はされず、刑は確定した。だが刑務所の振り分けが決まるまでの数日間に、練はまた自殺をはかった。自分で自分の手首を食い破ろうとしたんだそうだ」
「初犯で暴力団とも無関係だったのに、練はB級の府中に送られた。また自殺をはかる恐れがあるんで管理が厳しく政治犯用に独房の数も多い府中になったんだろう。だがやがて大部屋に移され、武藤組の田村とはそこで知り合った。ムショの中で何があったのか、田村はよく知ってる。別に珍しいことじゃない……若くておとなしくてひ弱で、女みたいな顔をした奴がそこにいたら、されることはひとつだ。練は、睡眠不足で作業中にぶっ倒れるぐらい、みんなに可愛がられた」
「田村は、練が笑ったのを一度も見たことがなかったと言ってた。二年の刑期で仮釈までの一年七ヶ月の間、一度もだ」
警察が〈山内練〉を造り出した
緑子は絞り出すように「だからって……」と口にしたが、麻生は「練をパクったのは俺だ。この俺なんだ」と言い、こう続けた。
「逮捕された奴のその後の人生なんて、デカには関係ないことだ……そうだよな? だけどそう言い切る為にはたったひとつ、条件がある」
「……条件?」
「そいつが真犯人であること……それが絶対条件だ」
緑子は息苦しさをおぼえた。
「麻生さん、あの……それって、でも」
「まさか……だってそんなこと、あり得ない。あなたが……間違うなんてこと」
「麻生さん、ねえ、答えて。山内は女の子、襲ったんでしょう? それに間違いなんでしょう?」
「ちゃんと答えてよ! お願いだから……答えて」
悪魔のように頭の切れる男、悪魔に魂を売った人間、闇の世界で帝王になる逸材……。そんな男を造ったのは、ほかならぬ警察だったーー。
山内再生を予感させるラスト
麻生が自身のミスによって山内の人生を変えてしまったことに気づく過程を描いたのが、2002年に出版された「聖なる黒夜」です。
広域暴力団の大幹部が殺された。容疑者の一人は美しき男妾あがりの男……それが十年ぶりに麻生の前に現れた山内の姿だった。事件を追う麻生は次第に暗い闇へと堕ちていく。圧倒的支持を受ける究極の魂の物語(『聖なる黒夜(上)』)
刑事・麻生龍太郎と男妾あがりのインテリ山内練。ひとつの殺人事件を通して暴かれていく二人の過去に秘められた壮絶な哀しみとは? ミステリとして恋愛物語として文学として、すべてを網羅した最高の文芸作品!!(『聖なる黒夜(下)』)
1998年出版の「月神の浅き夢」は、そういう意味で言えば、すこし中途半端な部分があるのは確かです。 冤罪だったと言い切っていませんし、本筋の連続殺人事件にも一部関係していることは出てきますが、詳細は4年後に出版された「聖なる黒夜」まで待たなくてなりません。
それでも、山内練誕生の秘密を明らかにする重要な作品であることは疑いを容れません。
「月神の浅き夢」は、山内に「再審請求させたい」と願う麻生の望みを、おそらく実現させるのは緑子であることを予感させるエンディングとなっています。
緑子と山内が取調室で向き合って終えるラストシーンをを(ネタバレにはならないと思うので)紹介して拙文を終えます。
「もう一度、お聞きしてもいいですか」
緑子は、山内の視線が窓を離れて自分のところに戻って来るのを辛抱強く待った。
「十二年前の事件のことを」緑子は、待つ。
そう、待ち続けよう。
山内が自分から口を開くまで、いつまでも待とう。
心を白くして、耳を澄ませて、その声を聴こう。
そこからしか始まらないのだ。始めてはいけないのだ。
人が人を裁く。その大きな、矛盾に満ちたシステムの中で、最初にその仕事をする。それが刑事なのだ。
注意深く、真剣に、向かい合った人間の言葉を聴く。総てはそこからだ。長い、長い夜の中で迷子になった、ひとりの気の弱い、優しい青年。
青年は夜明けを待っている。だが西へ西へと流れる雲のように、太陽に背いて夜の闇へと逃げ込んでいく。
自分の背に犯罪者の烙印を押し、大切な兄を奪い、故郷を奪った太陽を、青年は憎み続けている。
長い、長い夜の果て。
途方もなく遠い夜明け。だが、明けない夜はない。緑子の命を救ったあの蝶は、幻ではない。
今、目の前にいる。
山内の視線が、静かに緑子の上に戻る。
緑子は、今、刑事であり続けることを、新しく始めた。
(しみずのぼる)
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