今朝、新聞でとてもいい記事を読みました。落語家に関する記事です。南沢奈央さんのエッセイ集「今日も寄席に行きたくなって」を読みかけでなければ、きっと読まずに終わった記事でしょう(2024.2.12)
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その記事は、読売新聞朝刊社会面の連載記事でした。見出しが「落語 見つけた居場所」、そで見出しが「挫折 江戸の笑いに誘われ」でした。
新聞の朝刊はだいたい30ページ以上あります。ずいぶん前のことですが、すべて精読したら新書7冊分の情報量があると聞いたことがあります(いまは活字も大きくなっているので、もっと少ないかもしれません)
一日に新書7冊も読めませんから、記事は見出しを見て、読みたい記事だけ拾い読みするのが一般的でしょう。少なくともわたしはそうです。
ですから、南沢さんのエッセイ集「今日も寄席に行きたくなって」を読みかけでなければ、まず100%、この記事を読もうとは思わなかったのは間違いありません。
訳もなく涙があふれた
記事は落語家の柳亭信楽(しがらき)さんに焦点を当てたものでした。
今年でめでたくデビュー10周年。この遅咲きの落語家にとって、高座の座布団は「ようやくたどり着いた居場所」だった。
難関私立の中学高校、大学に通ったエリート青年の信楽さんは、就活でつまずき、唯一内定をもらった中堅証券会社でもつらい日々が待ち受けていた。
毎日200軒ほど飛び込みで営業した。でも顧客の利益になるとの確信がないから、うまくしゃべれない。契約にこぎつけられないと、先輩に「もう一度行ってこい」と命じられ、同じ家を何度も訪れたあげく、「もう来るなと言うたやろ」とどやされた。
(略)
1年近くたったある日、訪問先のインターホンを押そうとした際、訳もなく涙があふれた。
泣きじゃくりながら、客にあいさつするので精いっぱい。「一生懸命勉強してきたのにこんな人生なのか」
そんな設楽さんを救ったのが、寄席で聞く古典落語でした。
江戸の庶民の暮らしぶりが目に浮かび、貧しくとも屈託なく生きる人々の姿に心を奪われた。成功を求めてあくせくし、何をやってもうまくいかないと焦る自分が滑稽に思えた。
「余白」について考える
この記事は連載「余白のチカラ」の2回目。「へえ、いい記事だなあ」と思い、そう思うと1回目も読みたくなります。紙面ビュアーで一日前の記事にアクセスするとありました。企画の趣旨が書いてあります。
スマートフォンが登場してはや15年余り。私たちの生活は年々便利になるが、スマホには通知が次々に入り、何かせかされているようでもある。手っ取り早く成果を求める風潮が広がる中、手間暇やムダ、ゆとりを大切にする人もいる。少し立ち止まって、「余白」について考えてみませんか。
なお、連載1回目に登場するのは、インターネットも電話もなく、予約を取るには手紙かはがきしか手段がないという岩田県野田村の民宿でした。これもいい記事でした。
泣きたいのに泣けないのか
設楽さんの証券会社勤務の頃に「訳もなく涙があふれた」というエピソードを読んで、
そう言えば、「しゃべれどもしゃべれども」にも涙の話が出てきたな
と思い出し、今朝はこの記事がきっかけで佐藤多佳子さんの「しゃべれどもしゃべれども」(新潮文庫)を、それこそ20数年ぶりに再読し始めました。
俺は今昔亭三つ葉。当年二十六。三度のメシより落語が好きで、噺家になったはいいが、未だ前座よりちょい上の二ッ目。自慢じゃないが、頑固でめっぽう気が短い。女の気持ちにゃとんと疎い。そんな俺に、落語指南を頼む物好きが現われた。だけどこれが困りもんばっかりで……胸がキュンとして、思わずグッときて、むくむく元気が出てくる。読み終えたらあなたもいい人になってる率100%!
涙の話はこういうくだりです。
あんた、泣く夢を見たことはないか? と湯河原は尋ねた。俺は覚えがなかった。時々見ると湯河原は言った。泣く理由はわからない。ただ、なんだか、おいおいと際限なく泣く。それが無性に気持ちがいい。恥ずかしくない。悔しいとか悲しいという感情もない。ただ、何かがこみあげてきて、それをひたすら吐き出して、さっぱりしているんだ。その夢を見て起きると、夢だか現実だかしばらくわからなくなって、ようやく夢だと気づくと、愕然とする。そんなに自分は泣きたいのか、そんなに泣きたいわけがあるのか、泣きたいのに泣けないのかと思う。空しくなる。
今のわたしそのものじゃないか
「しゃべれどもしゃべれども」は、実は南沢さんの「今日も寄席に行きたくなって」にも出てきます。
能動的に落語を聴くようになったのは、高校に入ってからだ。
現代文の授業で読書感想文を書く課題が出た。指定された数冊の中から選んだのが、佐藤多佳子さんの『しゃべれどもしゃべれども』だった。この選択でわたしの人生が大きく変わっていったのだと思うと、どこに人生の分岐点があるか分からない。
もう少し引用を続けましょう。
この小説の主人公は、噺家だ。前座修行を終えて真打になる手前、”二ツ目”の今昔亭三つ葉。彼の元に、それぞれ問題を抱えた4人が集まり、落語指南を受ける。吃音に悩むテニスコーチ、ツンとして無口な美女、学校で虐められている関西弁の小学生、うまく喋れない野球解説者。
それぞれの気持ちが、痛いほど分かった。
不器用な彼らは、今のわたしそのものじゃないか。
女優の仕事を始めたはいいが、人見知り、口下手であがり症の女子高生。
落語を通じて成長していく4人に、自分を重ねていった。
涙の話は「うまく喋れない野球解説者」のセリフです。
つらい時は泣いていい。泣きたいのに泣けないつらさに比べれば……。
「しゃべれどもしゃべれども」は、再読を終えたら改めて紹介したいと思います。
なお、再読のきっかけとなった読売新聞の連載記事は「読売新聞オンライン」で読むことができます。
ネット配信用の見出しは「証券会社では最下位、芸人としても売れず…江戸の笑いに救われようやく見つけた「落語」という居場所」です。
(しみずのぼる)