マーク・グリーニーの〈グレイマン〉シリーズの第12作目「暗殺者の屈辱」(原題:Burner)が23年12月25日に発売されました。ウクライナ戦争を背景にした骨太の国際謀略アクション小説ですが、何よりも、待ちに待ったゾーヤの登場です!(2024.2.2)
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背景にウクライナ戦争
この記事は、〈グレイマン〉シリーズについて書いた以前の記事を読んでいる前提で書きます。未読の方は以前の記事を先に読んでください。
それではシリーズ12作目で新刊ほやほやの「暗殺者の屈辱」のあらすじです。

暗殺者グレイマンことコート・ジェントリーは、ターゲットになっているはずのCIAから依頼を受ける。自由と引き換えに、米露両国の極秘情報を収めたデータ端末を確保する任務に就くジェントリー。だが、セントルシア島でGRUの工作員マタドールに先を越され、あと一歩のところで任務に失敗してしまう。ジェントリーは汚名を晴らすべく、端末を追ってヨーロッパに渡るが……。冒険アクションの最高峰、シリーズ最新作(「暗殺者の屈辱」上)
フリーのエージェントとなった元SVR(ロシア対外情報庁)将校ゾーヤは、データ端末を持つスイスの銀行家とともにジュネーヴに向かう列車に潜んでいた。だが、銀行家を追うマタドールらGRU工作員の襲撃を受ける。激しい戦闘の最中、ゾーヤはかつての盟友ジェントリーと邂逅する。果たしてジェントリーとゾーヤはこの戦いを勝ち抜くことができるのか!? シリーズ最大級のスケールで贈るノンストップ・アクション大作!(「暗殺者の屈辱」下)

うーん、このあらすじは肝心なところを伏せて書いているようですね。
「肝心なところ」とは、「暗殺者の屈辱」が、2022年2月24日にロシア軍がウクライナに軍事侵攻し、開戦から2年近くたった今も激しい戦闘が続くウクライナ戦争を背景にしたストーリーであることです。
まず、上巻の最初のページに度肝を抜かれます。最初のページにこう書かれているからです。
ウクライナに栄光あれ!
ソルジェニーツィンの引用
続いて、ロシアのノーベル文学賞作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンの言葉が引用されています。とても大事な言葉だと思うので、そのまま引用します。
彼らは嘘をついている
彼らが嘘をついているのを、わたしたちは知っている。
彼らは嘘をついているのを知りながら嘘をついている。
彼らが嘘をついているのをわたしたちが知っていることを、彼らは知っている。
彼らが嘘をついているのをわたしたちが知っているのを彼らが知っていることを、わたしたちは知っている。
それでもなお……彼らは嘘をつきつづけている。
いまでは新潮文庫のコーナーにもソルジェニーツィンの小説は一冊も置いていないでしょうが、中学生の頃にソルジェニーツィンのデビュー作「イワン・デニーソヴィチの一日」を読んだ時の衝撃と静かな感動は忘れられません。
ドラマチックなことは何も起こらないのです。ただひたすら収容所生活の一日を描いているだけなのです。それなのに、読み終えて思うのは、独裁国家が狂暴になった時に蹂躙される自由の大切さ。すごいと思いました。
この引用がどの著書に書かれているのか(あるいは、どこかでのスピーチなのか)承知していませんが、このタイミングでソルジェニーツインの言葉ーー「彼らは嘘をついている」のリフレインーーを引用し、「ウクライナに栄光あれ!」と巻頭で掲げる、著者グリーニーが「暗殺者の屈辱」に込めた強いメッセージに胸を打たれます。
でも、これほど強いメッセージ性を放つ「暗殺者の屈辱」が”告発”しているのは、ロシアの腐敗そのものではなく、腐敗するロシアから賄賂を受け取り、政治をロシア寄りに誘導しようとするアメリカ政府高官の腐敗なのです。
戦争の長期化で、米国内でウクライナへの”支援疲れ”もささやかれる中、著者グリーニーの意図はまさに「ウクライナに栄光あれ!」だと思える読後感でした。
コートとゾーヤの再会
第10作「暗殺者の悔恨」で離ればなれになったコート・ジェントリー(グレイマン)と元SVR(ロシア対外情報庁)女性工作員ゾーヤが再会することも、とても嬉しく読みました。
それにしても、コートから(形の上で)捨てられ、コートの愛を信じつつも生きる支えを失い、アルコールとコカインに依存するゾーヤの痛々しさといったら!
そして再会の刹那、再びの離別……。著者はすこし残酷ではないですか?
まあ、それだけに再度訪れるふたりの再会シーンに胸と目頭が熱くなります。以下、少し長く引用します。
通りと向かいのビルに注意を向けた。男が傷をなめるために仲間のそばに戻った。窓のそばの女はレスビアンだと仲間にいっているのだろうと、ゾーヤは憶測した。
数分のあいだ観察し、ウォトカを三分の二まで飲んだところで、右の窓のほうを向いたとき、左に動きがあるのをゾーヤは察した。
動きの源のほうを向こうとしたが、スーツにネクタイを締めた男がすでに向かいに座っていた。ゾーヤは男の顔すら見なかった。ただ溜息をついてつぶやいた。「あなたの友達とおなじことになるだけよ」
人影は動かなかった。
あらたにいい寄ってきた男の手を見おろすと、コーヒーのカップを持っているのが目に入った。若いビジネスマンにしては、午後四時半に妙なものを飲んでいる。うんざりしたように溜息をついて、ゾーヤは男のほうを見あげた。
そのとき、胸のなかで心臓が縮まるような思いを味わい、息を呑みそうになるのをこらえた。たちまち、大粒の涙が目からあふれそうになった。
唇をわななかせて、ゾーヤはじっと座り、呪文をかけられたかのようにまったく動けなくなった。
言葉が出てきたとき、何カ月も口をきいていなかったように、声がかすれていた。「あなた……あなたなの?」
コート・ジェントリーは、不安げな笑みを浮かべ、コーヒーを持っている手がすこしふるえていた。
きのうは朝から読み始めてとめられなくなり、夕飯を作るのもを面倒になり(職場帰りの妻に「和幸のトンカツ買ってきて」とラインでお願い)、お風呂の後すぐにベッドに入って読了しました。一夜たってもまだ余韻にひたっています。
ようやくめぐり逢えたコートとゾーヤは、次の作品でどんな試練が待ち受けているのでしょうか。
もう誰も知らないところでふたり幸せにしてやってほしいと願う反面、彼らにふたたび物語世界の中で会いたいと願っている自分もいて、なんとも複雑な気持ちです。
きょう(24年2月2日)の時点で全12作。文庫の冊数で数えたら20冊です。
まさに〈サーガ〉という表現がぴったりな〈グレイマン〉シリーズ。興味を持ったらぜひ手にとってみてください。
(しみずのぼる)