脚本家の山田太一氏が亡くなりました。様々なテレビドラマで名を残した方ですが、私はどうしても「異人たちとの夏」が思い浮かびます。小説は第1回山本周五郎賞に輝き、大林宣彦監督の映画は俳優たちの熱演で鮮烈な記憶として残っています。久々に読み直して、今回も心地好い涙に頬を濡らしました(2023.12.2)
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せつないホラーの代表例
以前、福澤徹三氏の「幻日」について紹介した際、「異人たちとの夏」に触れています。
日本には「せつないホラー」とも言うべきジャンルがあるように思います。
山田太一氏の「異人たちとの夏」(新潮文庫)が代表例でしょうか。大林信彦監督の映画でも有名です。小説も映画も、浅草のすき焼き店のシーンは、嗚咽をおさえられません。
人ではないものと逢瀬を重ねるーー。「幻日」と「異人たちとの夏」の設定は似通っています。泣けるのはまちがいなく「異人たちとの夏」ですが、読後に漂う何ともせつない寂寥感は「幻日」のほうが上のような気がします。
せつないホラーは好きですか:福澤徹三「幻日」
「異人たちとの夏」のあらすじを新潮文庫の背表紙より紹介しましょう。

妻子と別れ、孤独な日々を送るシナリオ・ライターは、幼い頃死別した父母とそっくりな夫婦に出逢った。こみあげてくる懐かしさ。心安らぐ不思議な団欒。しかし、年若い恋人は「もう決して彼らと逢わないで」と懇願した……。静かすぎる都会の一夏、異界の人々との交渉を、ファンタスティックに、鬼気迫る筆で描き出す、名手山田太一の新しい小説世界。
一字一句変えない様に芝居を
山田氏の訃報を読むと、セリフへのこだわりは並々ならぬ方だったことがうかがえます(読売新聞の評伝を読むと、俳優の中井貴一さんが「私の台本は、語尾のひとつまで考えて書いておりますので、一字一句変えない様に芝居をして下さい」と言われたことが出てきます)
そんなこだわりを意識して「異人たちとの夏」を読み直すと、印象的な場面ひとつひとつの鮮やかさが改めて浮かび上がってきます。
例えば、主人公が生まれ育った浅草で、若くして死に別れた父母と邂逅するシーン。
「今更」と私はいった。やはり聞くべきだった。「変なことを聞くようだけど」
「なに?」
「苗字、知らないんです。表札ないでしょう」
「なにいってるの。原田に決ってるじゃない」
女はこともなげに、私の姓をいって笑った。
「暑いからぼけたんじゃないの? 親の苗字を聞く子供が何処にいるのさ」
大きなハンマーがふり上げられ、避けようもなく頭に落ちて来るような、手のほどこしようがない瞬間があった。それからそのハンマーは私を一撃した。
「そうだな。フフ、どうかしてたな」
あえぐようにいった。振り向けなかった。
この場面は映画でも当然出てきます。主人公の風間杜夫さんも、母親役の秋吉久美子さんも、(この場面にはいませんが)父親役の片岡鶴太郎さんも、小説世界をそのまま「一字一句変えない様に芝居をして」いたのですね。

お前を大事に思ってるよ
そして、邂逅した父母と別れる浅草のすき焼き店の場面ーー。
「私たちなしで、よく三十六年もやって来たね」
「途中からは女房がいるよ」と父がいう。
「子供ってもんは、なんとかやってくもんなんだね」
「いねえんじゃやってくしかないだろうが」
いよいよ別れのときーー。
「いい?」と母が、座り直した。「気がせいて、うまくいえないけど、お前を大事に思ってるよ」
「行っちゃうの?」
そんな気がした。
「お前に逢えてよかった」と父がいった。「お前はいい息子だ」
「そうだよ」と母がいう。
「よかないよ。ぼくはお父さんたちがいってくれるような人間じゃない。いい亭主じゃなかったし、いい父親でもなかった。お父さんやお母さんの方が、どれだけ立派か知れやしない。暖かくて驚いたよ。こういう親にならなくちゃって思ったよ。ぼくなんか親孝行面してるけど、お父さんたちがずっと生きてたら、大事にしたかどうか分からない。ろくな仕事もして来なかった。目先の競争心でーー」
いいかけてハッとした。
母の肩のあたりが頼りないのだ。輪郭はたどれるが、その向うが見えている。
慌てて父を見ると、父の胸のあたりがもう消えかけている。
小説を読み直しても、泣けて泣けて仕方ありません。映画でも風間さん、片岡さん、秋吉さんの熱演に涙しか出ません。
「お前を大事に思ってるよ」
「お前に逢えてよかった」
「お前はいい息子だ」
「あんたをね」
「自慢に思ってるよ」
「身体を大事にね」
親とはそういうものなのでしょう。文庫の解説で作家の田辺聖子氏がこう書いています。
親恋いの小説、なんて今まで読んだこともなかったが、これは単なる親恋いではなく、現代ではうすれてしまった、無私の愛、見返りを求めないやさしさ、人間のいちばんいい部分への郷愁なのだ。
「どうもありがとう」
わたしは「せつないホラー」と書きましたが、この表現自体が「異人たちとの夏」の大切な部分を壊しているようで恥ずかしくなります。田辺氏の、次の文章の通りです。
私はこの物語を、お化け小説ともSFとも思わず、素直に一篇の小説として読めた。浅草をさまよい歩いて出会う若い父母も、無人のビルで知り合った寂しい女、ケイも、小説のなかでは重いリアリティがあった。小説は何をどう書こうといいものなんだ、とあらためて思い、力づけられる気がした。涙が出たが、ほのぼのとして明るく、気持ちのいい涙だった。「どうもありがとう」ーーこれは、『異人たちとの夏』への私の感謝、讃辞でもあった。
山田太一さん、どうもありがとう。
(しみずのぼる)