前回記事(お願い・お願い・わたし:川上健一「翼はいつまでも」)に引き続いて、もういちど川上健一氏の「翼はいつまでも」を取り上げます。きょうは本の表紙にもなっている、十和田湖で二人ですごす場面です(2023.8.8)
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主人公の神山くんは、夏休みに入ってガールハント目的で十和田湖に一人キャンプに出かける。そこで、クラスの同級生でなぞの少女、多恵と遭遇する。多恵は近くのホテルでアルバイトをしていた。
多恵と話をしているうちに、彼女の「なぞ」がひとつひとつ解けていく。交通事故で両親を失って、顔の傷も身体の青あざもその時の傷だったこと。実はピアノが上手で歌もすごくうまい、英語もペラペラ。でも、それが理由で前の学校では「ナマイキだ」といじめられたこと…。しかし、多恵のつらい経験はそれだけでなかった。
長く続く悲しいむせび泣き
「叔母さんの家を追い出されると、どこへもいくところがないと思って、怖かった…。ウーッ、ウーッ」彼女は苦しそうに胸をつまらせて泣きだした。「一人ぼっちになるのが怖かった。ウーッ、ウーッ」
「もういいッ、やめろ斉藤」
ぼくは急いで頭をおこして反射的に彼女の手をつかんでしまった。なにも考えていなかった。手をつかもうと思って手をつかんだわけではなかった。ただ彼女の話をやめさせたかった。それは無意識のいたわりだったけど、ぼくは無我夢中だった。ハッとして、手をにぎってしまった、と自分自身の行動にびっくりして手をひっこうめようとした。そのときだった。彼女の手がぎゅっとぼくの手をにぎりかえした。すごい力だった。
(略)
彼女の胸がはり裂けそうな悲しいむせび泣きはいつはてるともなくつづいた。ぼくたちは横になって空をみあげたまま、互いに力をこめて手をにぎりあっていた。
「君の手をにぎりたい」
そして、多恵がようやく泣き止んだところで、ビートルズの「抱きしめたい」のことが出てくる。
「ありがとう」
「だってそうじゃねえか。なんだって斉藤が殴られなきゃならないんだよ。それに」
「ちがうの…。手をにぎってくれてありがとうっていったの。辛いとき、誰かが手をにぎってくれるって、とってもうれしいものなんだね。一人じゃないって、やっぱりいいな。もう少しにぎっていてくれる? とっても気持ちいいんだ。なんだかほっとする….」
(略)
「ありがとう」そういって、彼女は歌いだした。ゆっくりと。つぶやくように。
♪オウ・イエー・アーーイル・テル・ユ・サムシン…。
ビートルズの《抱きしめたい》。やっぱりきれいな声だった。
「ビートルズって本当のことをいうんだね。日本では《抱きしめたい》ってタイトルになっているけど、英語のタイトルは《君の手をにぎりたい》っていうんだよね。♪エンド・ウエン・アイ・タッチ・ユー・アイ・フィール・ハッピー・インサイド…
君に触れているとすごく幸せなんだ…アイ・ワナ・ホールド・ユア・ハンド…君の手をにぎりたい…」
ビートルズの「抱きしめたい」はアップテンポの曲ですが、多恵はこれを「ゆっくりと、つぶやくように」歌ったんですね。
こうやって二人は十和田湖で親しくなります。
同級生たちと遭遇するふたり
ところがこのあと、神山くんの憧れのクラスメート杉本さんとその取り巻き連中が十和田湖にやっぱり遊びに来て、多恵をみつけてしまう。
水着を貸すから一緒に泳ごうと誘う杉本さん。からだの痣を気にして固辞する多恵。「親切を無にするのか」と囃し立てる取り巻き連中……。
斉藤多恵は膝をかかえたまま、悲しそうに湖面をみつめていた。「ごめんね。わたし、ちょっと…」小さな声でいった。
ぼくの頭がカッと熱くなった。斉藤多恵に水着を着させちゃだめだッ。みんなに身体の痣をみられたら彼女は辛い思いをするんだッ。彼女をまもらなければッ。かといってやつらとケンカもしたくない。ケンカになれば痣のことで斉藤多恵がいやな思いをまたひとつかかえこんでしまう。どうすんだッ!? 早くなんとかしなくちゃ! ぼくはうろたえてしまった。そのときだった。突然ひょいという感じでバカなことを思いついた。いい考えにはちがいない。だけどぼくは二の足を踏んだ。ものすごく度胸がいることだったのだ。それは前の日に斉藤多恵のいったことがヒントとなった。
……それをやればきっとみんな唖然として、それから俺をバカにして笑いだすにちがいない。それで斉藤多恵に水着を着させることなど、みんな忘れてしまうにちがいない。だけど、杉本夏子に完全に嫌われてしまう。怒ったり、呆れ返ったりしていってしまうかもしれない。もう学校であっても無視されて口もきいてくれないだろう。笠原と桜田が学校の連中にいいふらしてみんなの物笑いの種になることはまちがいない。遊泳場の渚のほうで誰かがみているかもしれないし…。
再び「お願い・お願い・わたし」
ここで、引っ込み思案だった神山くんに勇気を与えてくれた、あの《お願い・お願い・わたし》が再び登場するのです。
♪カモン、カモン! カモン、カモン! カモン、カモン! カモン、カモン!
またふいに《お願い・お願い・わたし》がきこえてぼくを叱咤し始めた。
♪やれよ。いい考えだぜ。杉本夏子に嫌われる? それがどうした。斉藤多恵を助けてやれるのはお前しかいないんだぜ。さあ、勇気をだせよ! 自分に正直になろうぜ。
よしッ。ぼくは決心した。笑われるぐらいがなんだってんだ。杉本夏子にはどっちみち無視されていたじゃねえか。
「なんだお前ら。こんなきれいな水に水着きて入るってんのかよ」ぼくはそういってTシャツを脱いだ。「こんなきれいな水はよ、水着なんかねえほうが気持ちいいぜ」エイヤッ、と心の中で気合いを入れて半ズボンといっしょに水着パンツも勢いよくさげた。
素っ裸になって湖面に飛び込む神山くん。同級生たちが驚いていると……。
声を立てて笑い始めた多恵
「フフフ、フフフフ、クククク」
かみ殺すように斉藤多恵が笑いだした。それから声をたてて笑い始めた。「ハハハハハ、アハハハハハ」
みんな、斉藤多恵が声を立てて笑う姿を初めて目にしておどろいたみたいで、じっと斉藤多恵に視線を注いでいた。
すると、いきなり斉藤多恵はすくっと立ちあがった。
「泳ごう、杉本さん。阿部さんも笠原君も桜田君も」
斉藤多恵はなにかを吹っ切ったように明るく元気な声でそういうと、あっというまの早業で衣服を脱ぎ捨て、下着一枚になった。
だいぶ長い引用になってしまいましたが、とても好きなシーンです。ぜひ手にとって読んでみてください。そして、十和田湖と二人の少年少女の情景を思い浮かべながら、ビートルズの名曲群を改めて聴いてみてください。
(しみずのぼる)