川上健一氏の『翼はいつまでも』は、1960年代の青森を舞台に、ビートルズの名曲が彩る中学生の瑞々しい恋と成長を描いた青春小説の名作です。作中の印象的な「プリーズ・プリーズ・ミー」の歌唱シーンや、主人公の不器用な誤訳が引き出した少女の笑顔の魅力を紹介します(2023.8.7)
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ビートルズの名曲が彩る1960年代青森の青春小説
『翼はいつまでも』(集英社文庫)は、1960年代の青森が舞台です。野球部で補欠選手の中学三年生が主人公で、物語の前半は野球小説、後半は、クラスの誰とも話そうとしない少女との恋の物語となります。
川上健一『翼はいつまでも』(集英社文庫)
その大事な場面場面を彩るのがビートルズの名曲群なのです。
二人が出逢うきっかけとなった「プリーズ・プリーズ・ミー」、教師たちと対決する場面の「ツイスト・アンド・シャウト」、十和田湖で少女の手を握る「抱きしめたい」、別れの場面の「オール・マイ・ラビング」…。
ビートルズをもう一度聞き直したくなる、そんな青春小説の傑作です。
きょうは「プリーズ・プリーズ・ミー」の場面をご紹介しましょう。
誰も話さない少女が主人公の歌に興味を示した瞬間
主人公の神山くんとなぞの少女、多恵がはじめて言葉をかわす場面です。
神山くんはラジオの米軍放送で耳にした《お願い・お願い・わたし》に心を奪われ、翌日、クラスで同級生に勧めると、冷やかし半分で「じゃあ歌ってみろ」とせかされる。
♪ラースタアナーセイトウマートウーマーイガール!
それからエレキギターの口真似でジャジャジャジャジャジャ! と演奏をやってつづけた。
一瞬教室がシンとなった。ぼくの歌に感動したのでも、歌った曲に心をひきつけられたのでもない。ぼくがいきなり大声で歌いだしたのでびっくりしてしまっただけなのだ。
♪アーノーユーネーバーイーブントラーイガール! ジャジャジャジャジャジャ!
みんなが笑いだした。不思議なことに笑われてもぼくはなんとも思わなかった。いざ度胸をきめて歌い始めるとちっともはずかしくなかった。耳や顔のほてりもおさまっていた。人前で一人で歌って照れくさくなかったのは初めてのことだ。そんなことより《お願い・お願い・わたし》をみんなにきかせたいという思いをどうしても抑えることができなかった。
♪カモンカモン、カモンカモン、カモンカモン、カモンカモン! プリーズプリーズミーオーイエーライップリズユー!
(略)
ぼくが歌い終わると教室の中は歓声で満ちた。感動したわけではない。力石と輪島は腹をかかえて笑っていたし、歓声は冷やかしとバカにした笑いだった。ところが次の瞬間、およそ考えられないことがおこった。斉藤多恵がゆっくりとぼくのほうに向かって歩いてきたのだ。彼女は瞳を輝かせてやってきた。
「いまの歌、なんという歌なの? わたし、とってもいい曲だと思う。もう一回歌って?」
きれいな標準語だった。
教室中が水を打ったようにシンと静まり返った。
なぜかといえば、斉藤多恵はクラスの誰とも話さない生徒だったから。顔には大きな傷があって、足もひきずるように歩くし、体育は毎回見学で、いつもポツンとひとりぼっち。音楽の授業でも歌わないため音痴なのだと思われていた。
多恵の要望を受けてもう一度歌う神山くん。再び「本当にいい曲ね」とほめる多恵……。
「な、いい曲だろう」
それでもうれしくて心があたたかくなった。
「うん、なんていう曲なの?」
彼女は笑ってぼくをみた。彼女の笑い顔が意外に明るかったので少しびっくりした。
「《お願い・お願い・わたし》っていうんだ。たぶんな。《プリーズ・プリーズ・ミー》っていっていたから、日本語だとそうなるんじゃねえかと思うんだけどさ」
「そう、かもね」
彼女はクスクスと笑った。かわいい笑顔だった。ぼくはまたまたびっくりした。いつも一人静かにしている彼女がこんなにもかわいい笑顔を持っていたのかと本当におどろいた。
主人公の不器用な誤訳が引き出した少女の明るい笑顔
もちろんお気づきかと思いますが、多恵がクスクスと笑ったのは、神山君の誤訳のせいですね。
pleaseを辞書で引くと、間投詞の「どうか、どうぞ」と一緒に他動詞の「~を喜ばせる」があります。だから、最初のpleaseは間投詞の「どうか」で、二つ目のpleaseは他動詞の「~を喜ばせる」、つまり「どうか僕を喜ばせてよ」という訳が正解となります。
次回は『翼はいつまでも』のハイライト、十和田湖で少女の手を握る「抱きしめたい」の場面をご紹介します。
(しみずのぼる)
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