以前の記事(就活は恋愛に似ている)で就活のことを書きました。今回も就活話を続けます。エントリーシート(ES)で「座右の銘」や「座右の書」を訊ねる企業があります。当然のごとく、面接でも聞かれることになります。あなたならどんな座右の銘や座右の書を挙げますか? (2023.7.6)
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ニュースで学ぶ、生きた英語。「The Japan Times Alpha」ESや面接で訊ねる企業もある
座右の銘や座右の書は、就活対策で「入念にエピソードを用意しておきなさい」と言われるひとつです。
ですから、きょうと次回の記事で座右の銘/座右の書を取り上げますが、最初に断っておくと、今回の記事は話がどんどんと別方向に向かっていきます。「あれ、就活がテーマでないの?」と不審を抱くと思いますが、次回記事で種明かしをしますので、どうかご容赦ください。
さて、ESで座右の銘/座右の書を聞かれた場合の話です。
ここはひとつ実例を挙げましょう。わたしの娘のケースです。
わたしの娘が第一志望にした企業も座右の銘を書かせるESの書式でした。
娘が選んだ銘は「置かれた場所で咲きなさい」でした。
娘の場合、別に話を盛って(創作して)この言葉を選んだのではなく、中学生の時の部活の先生に言われた言葉だったそうです。
部活でうまくなじめず、落ち込んでいた娘に先生が教えてくれた言葉だったので、面接で聞かれても、スラスラと中学の挫折体験も盛り込んで説明できたそうです。
(ついで言えば、無事入社したものの配属先が希望の部署でなかった娘に、わたしは「置かれた場所で咲きなさいね」と声をかけました。ちょっと便利な言葉ですね)
置かれた場所で咲きなさい
さて、「置かれた場所で咲きなさい」は、ノートルダム清心女子大学学長を長く務めた渡辺和子さん(1926-2016)の言葉です。同じタイトルで2012年に出版されたエッセー集は、累計300万部を越えるベストセラーになりました。
修道会の命令で岡山のノートルダム清心女子大学に派遣され、学長の急逝から36歳で学長に就くことになり、驚きと困惑でふさぎ込み、すっかり自信喪失した渡辺さんに、ひとりの宣教師が短い英語の詩を渡してくれたそうです。
その詩の冒頭の一行、それが「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったのです。
岡山という土地に置かれ、学長という風当たりの強い立場に置かれ、四苦八苦している私を見るに見かねて、くださったのでしょう。
それまで周囲が何もしてくれないと嘆く毎日だった渡辺さんは、この詩がきっかけで「”くれない族”の自分と決別しました」
いただいた詩は、「置かれたところで咲きなさい」の後に続けて、こう書かれていました。
「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです」
同書は短いエッセーの後、必ず標語のようなページがあります。
どんなところに置かれても
花を咲かせる心を
持ち続けよう
境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる。
「現在」というかけがえのない時間を精一杯生きよう。
この渡辺和子さんは少女時代、筆舌に尽くしがたい体験をしています。父親を目の前で銃殺されたのです。
父の凄惨な死を至近距離で目撃
昭和11(1936)年の「二・二六事件」ーー若手将校たちが首相官邸などに乱入して武装占拠し、重臣たちを銃殺して「国家改造」を要求したクーデター事件です。この時に銃殺された重臣のひとりが渡辺錠太郎・陸軍教育総監。渡辺和子さんのお父さんでした。
ノンフィクション作家の梯久美子氏の「この父ありて」(文芸春秋)が渡辺父子を取り上げています。将校たちが自宅に乱入してきた場面を引用します。
「一階の和室で父と布団を並べて寝ていた和子が物音に目を覚ますと、先に身を起こしていた父は押し入れからピストルを取り出し、「お母様のところに行きなさい」と言った。
部屋を出た和子は母を見つけるが、銃声や兵の叫び声が聞こえる中、母はおろおろする女中たちに懸命に指図をしている。邪魔をしてはいけないと思い、父のいる和室に戻った。
「父は、困ったな、という顔をいたしました」
(略)
錠太郎は、部屋の隅に立てかけてあった座卓の後ろに隠れるよう和子に目で合図をした。和子が座卓の裏に入るのとほぼ同時に、隣の茶の間とのあいだの襖が細く開き、軽機関銃がさしこまれて射撃が始まった。
最後は安田優少尉によって至近距離から拳銃で撃たれ、銃剣で切りつけられて、錠太郎は絶命する。その一部始終を、座卓の陰から和子は見ていた。 歴史に残る事件の、わずか九歳の目撃者である。
(略)
父の凄惨な死を至近距離で目撃したのだ。これほどむごい話があるだろうか。
だが和子はこう言った。
「いいえ、私はあの場にいることができて本当によかった。私がいなければ、父は自分を憎んでいる者たちの中で死ぬことになりました。私は父の最期のときを見守るために、この世に生を享けたのかもしれないと思うときがございます」
平和の海と戦いの海
二・二六事件を題材にした書物は枚挙にいとまがありませんが、わたしが特に好きなのが平川祐弘氏の「平和の海と戦いの海」(講談社学術文庫)です。
同書は二・二六事件でやはり銃殺された斎藤実・内相が、襲撃前夜にアメリカ大使館に夫人と共に招かれ、大使と映画鑑賞をした場面から始まります。
大使の名前はジョセフ・グルー。昭和20年、終戦のため奔走した知日派外交官です。
斎藤夫妻、そして二・二六事件で銃撃されながら瀕死の重傷で生き残り、昭和20年に首相となった鈴木貫太郎(二・二六事件当時は侍従長)とグルーとの交流が、終戦に導いたことを様々な資料や証言をもとに描いています。
紹介はこの程度にとどめますが、とても感銘を受けた本ですので、もし興味を抱かれた人がいればぜひ手に取ってみてください。
小説なら「蒲生邸事件」
二・二六事件を題材にした小説なら、宮部みゆき氏の「蒲生邸事件」(文春文庫)が好きです。背表紙の紹介文を引用しましょう。
予備校受験のために上京した受験生・孝史は、二月二十六日未明、ホテル火災に見舞われた。間一髪で、時間旅行の能力を持つ男に救助されたが、そこはなんと昭和十一年。雪降りしきる帝都・東京では、いままさに二・二六事件が起きようとしていたーー。
孝史はホテルの前身、蒲生邸で二・二六事件の4日間を過ごし、蒲生邸に奉公に出ていた、ふきという名の女性に恋心を抱きます。元の時代に帰ることになり、孝史はふきに「僕と一緒にいかない?」と訊ねます。
「嬉しいですけれど、できません」と、ふきは言った。「この屋敷には恩がございます。今のような折に、離れるわけには参りません。ここに居られることが、あたしには本当に有り難いことなんです。ここで働かせていただけなかったら、あたし、身売りするようなことになっていたでしょう。あたしの家は、孝史さんなんかご存じないような小さな家で、親は小作人です」
(略)
「だけどふきさん、怖くないの? 死ぬかもしれないんだよ。助かる可能性の方がずっと小さいんだよ」
きっぱりと、ふきは言った。「みんなが死ぬわけじゃありません。生きのびる人だっているはずでしょう。そんなに簡単に、あきらめたらいけません」
「だけど…..」
「手紙を書きます」
明るい目を孝史に向けて、ふきは言った。
こうしてふたりは、ふきの誕生日である四月二十日に浅草雷門で再会する約束をします。
雷門の場面とふきの手紙は、涙なしに読めません。ぜひ一読をおすすめします。
さて、ESや面接でよく聞かれる座右の銘や座右の書の話題から、二・二六事件つながりで宮部みゆきさんの歴史SF小説まで、思い切り話が拡散してしまいました。
とっ散らかしたままで恐縮ですが、理由は次回に説明します。
(いしばしわたる)